奥泉和也はクラゲ(加茂)水族館館長!!経歴とWikiプロフィールは? 

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山形県鶴岡市にある加茂水族館をご存知だろうか。別名「クラゲ水族館」と言った方が有名であろう。
水族館の主役と言えば、アシカやラッコなどであるが、ここの水族館は今までにない「クラゲ」という切り口が斬新な水族館なのだ。
クラゲの数だけで51種類展示されており、「世界一のクラゲ水族館」としてギネスにも認定されるほどだ。
休日にもなれば駐車場は満車になり、館内に入るのに2時間待ちにもなる。
今でさえ、このような盛況ぶりであったが、ここに至るまでには加茂水族館の長い歴史と当時副館長として水族館を盛り上げようとした奥泉和也さんの並々ならぬ情熱があったのだ。
今回は大人気の加茂(クラゲ)水族館とその立役者である奥泉和也さんについて調べてまとめてみた。

 

 

 

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幻想的なクラゲたちが大人気!!しかし一時は閉館危機にも陥った加茂水族館の歴史とは??

今でさえ大人気のクラゲ(加茂)水族館であるが、一時は来訪者数が減少の一途をだどり、閉館危機にまで陥ったこともあった。そんな紆余曲折があった加茂水族館の歴史について述べていきたい。
加茂水族館の歴史は古く、戦前にまで遡ること1930(昭和5)年。民間の水族館として始まった。近くには温泉郷もあり、温泉目当ての観光客の周辺観光地として誕生した。太平洋戦争中は国策の施設として使用され、戦後は県の学校の校舎として使用されていた。
そして1955年に当時の加茂町が鶴岡市と合併したことで、鶴岡市立の加茂水族館となった。1964に現在の場所に移転するも、この時までには年間20万人という安定した入場者数で推移していた。
しかし、ここから加茂水族館の暗黒期とも言える時期に入っていく。

1967年には地域活性化のための大型観光開発構想に組み込まれる形となったため、市から第三セクターとなる会社へ売却された。しかし事業は上手くいかず、水族館の売上げも赤字を補填するために使われ続けた結果、会社は倒産した。水族館経営は東京の商社に引き継がれたが、以前と変わらず利益を他の赤字を補填するために使用されていた。このため、水族館自体の設備補修や新規の設備投資へも出来ない状態が続いた。歳月を重ねるごとに際細っていくのが目に見えていた加茂水族館。2002年に加茂水族館は再び鶴岡市に買い戻されることとなるが、この時年間入場者数は過去最低10万人であり、下回ることさえあった。もういつ潰れてもおかしくない「弱小水族館」となった加茂水族館。この水族館が生まれ変わるキッカケは何だったのであろうか。

 

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「クラゲ」が水族館の運命を変えた!?クラゲに人生を捧げた奥泉和也の人生とは!?

歴史の長い水族館でありながらその運命は紆余曲折であり、当時副館長であった奥泉和也さんも当時の館長であった村上龍男館長と共に紆余曲折の人生を歩むことになる。

近隣に立派な水族館が出来たことで、村上館長と奥泉館長を含め職員たちは何とか起死回生を図ろうと奔走する。人気のアシカショーやラッコショーを始めたり、魚にとどまらず猿まで飼ってみたものの、空振り続きでかえって負債を抱えるハメになったり…と不遇が続いたという。

そんな中で逆転劇に導いた「クラゲ」に着目したのは今から20年以上にもなる1997年であった。

これも最初からクラゲに着目していたわけではなく、最後の悪あがきとして「サンゴの展示」に打って出たことがキッカケだった。結果は散々で、この年の来客数は年間9万人でピーク時の半分以下。

1人もお客さんが来ない日さえあった。普通なら心折れてもおかしくないのだが、「ピンチの時にチャンスがある」ということはこのことかもしれない。

たまたま飼育員がサンゴの水槽から小さな白い泡のような生き物がいて、それにエサを与え続けていたら3cmほどのサカサクラゲに育ったという。当時の村上龍男館長と奥泉和也副館長は「これだ!!」「このクラゲは神様が下さったのかもしれない」と村上館長は心底そう思ったという。

実際、お客さんに見せた時も反応が良かったことも後押しのきっかけになった。

しかし、実際に取り組んでみたところ、クラゲは繁殖させるのがとても難しいことが分かった。たまたま最初のサカサクラゲは他の魚と同じ水槽でも飼育が簡単な品種であったのだ。

そもそもクラゲは生態が解明されていないところが多く、飼育や繁殖をすることはとても難しいとされていた。職員総出で海でクラゲを取っては水槽で飼育してみるものの、2週間程度で死んでしまったという。

しかしその後も諦めることなく、試行錯誤を続けていった。この困難を乗り越えなければ、クラゲの展示は夢物語で終わってしまうからだ。奥泉副館長はクラゲが死んでしまわないように、試行錯誤を続けた。そして水分が多いクラゲを排水溝で吸収してしまわないように主流の強さを抑ながら水を循環させる方法(加茂式水槽)を開発、クラゲの飼育と繁殖を確立させていった。

そんな努力の甲斐も実り、翌年の1998年に5種ではあったがクラゲの展示に成功したところ、年間の来場者数が2000人増えたという。

わずか2000人という数であったが、自分たちの努力で増やしたことに自信を持った村上館長と奥泉副館長と従業員はこの時、「クラゲに未来をかける覚悟が決まった」と話す。その2年後の2000年にはクラゲの種類を12種に増やし、日本一になった。その後も徐々に入場者が増えたことで、資金を獲得することが出来た加茂水族館。その資金で新たにクラゲ展示規模を拡大していった。

2005年にはクラゲ飼育展示数を12種類から20種類と世界一を実現することが出来た。そして2008年に下村修さんが水中で光る「オワンクラゲ」の蛍光タンパク質の研究でノーベル化学賞を受賞したことで、加茂水族館に大フィーバーが起こる。なぜなら当時日本国内でオワンクラゲを飼育展示していたのは加茂水族館のみであったから。長年クラゲの飼育と繁殖に特化した功績とも言える。
2014年6月1日新館へ移転開業する形となったが、その1年間の最上者数は83万6000人に及び、当初予想していた数を大きく上回る人数となった。
クラゲに人生を捧げ、紆余曲折あった加茂水族館に人生を捧げた加茂龍男さんは2015年3月を持って館長を退任し、その後任として奥泉和也副館長が昇格して館長となっている。

 

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クラゲ水族館館長である奥泉和也の経歴とWikiプロフィールは??

奥泉 和也(おくいずみ かずや)

1964年山形県鶴岡市生まれ。現在55歳。

子供の頃から海や釣りが好きで、海の近くで仕事がしたいと思っていた。

1983年地元の農業高校を卒業後にアシカの飼育員担当として加茂水族館に就職。

前述にもあるように、加茂水族館は1960年から続く歴史ある水族館であるが、全国的な水族館ブームに取り残され、1997年には入館者が年間9万人にまで落ち込み、廃館の危機に陥る。

そんな折、偶然産後の水槽で生まれた逆さクラゲを見つけた奥泉さんが飼育し、展示したところ好評であったため、クラゲ担当専門を任された。

1997年にクラゲの展示を取り組み始め、1998年には早くも日本一を目指し、2003年にはアメリカのモントレーベイ水族館を抜き20十種類の展示で世界一となる。2012年には30種類の展示に成功し、ギネス世界一が認定された。

現在では60種類を展示中。世界のクラゲ飼育トップを誇る。世界中から飼育員が来館しクラゲの飼育に関して惜しみない情報を与える、国際的にもクラゲ飼育を牽引する存在となっている。(参考:情熱大陸

 

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