今年2月10日、元横綱であり格闘家としても活躍していた北尾光司さんが慢性腎不全により、55歳の若さで亡くなった。
北尾光司さんと言えば、第60代横綱であり双羽黒の名称で親しまれた。
しかし、後にトラブルで部屋を飛び出し、その後は冒険家、タレント、格闘家へと転身。その人生は波乱に満ちていた。
今回はそんな北尾光司さんの人生を振り返ると共に、晩年は病に苦しみ、闘病続けていた夫の様子を知る妻の淑惠さんのインタビューもまとめてみた。
北尾光司さんの歩んだ波乱に満ちた人生とは?
相撲界期待の星だった北尾光司
北尾光司さんは1963年8月12日に三重県津市に生まれた。
父親が柔道をしていたため、その影響で自身も幼少時は柔道を始めたが、通い始めた小学校に土俵があったため、毎日のように相撲をとる中で相撲に親しみを持つようになった。
さらに地元の商店街の相撲大会で優勝したことをきっかけに相撲が好きになっていった。
中学校に入るころには同じ中学生では相手にならなかったため、高校生相手に相撲をとっていたのだがここでも負け知らずであった。体格にも恵まれ、中学校卒業時には身長が195cmもあったという。
中学3年次の夏休みに行われた日本相撲協会の進級試験でも優勝したことで、その強さを見せつけ各界でたちまち評判になった。
中学卒業後、「5年で関取になれなかったら戻ってくる」という条件で立波部屋へと入門した。
立波部屋に入門するもわがままが災いし、横綱のまま廃業??
元横綱の双羽黒が2月に死去 2メートル近い長身、優勝はゼロ https://t.co/lcTMaqECft
— 47NEWS (@47news) March 29, 2019
相撲で横綱になることを約束されたような北尾光司さんであったが、入門後に精神的な弱さが露呈
する場面が見られるようになった。
もともと北尾公司さんは一人息子であったためか甘やかされて育ってきたという。
相撲の稽古は厳しいものであるが、少しでも厳しい稽古をさせると「痛い、痛い」と根を上げてしまい、口癖のように「故郷へ帰らせていただきます」と言うほどであった。
相撲界で横綱になることは全ての力士の目標である。そこには肉体的な強さだけでなく、根本には精神的な強さが伴わなければ到底無理である。
普通であれば、ここでそのような相撲の精神を諭したりするのであろうか、当時の立浪部屋の師匠は北尾光司さんをまるで「腫物を触るかのような扱い」であり、そうなると当然兄弟子たちも何も注意出来なくなっていったという。
ただ、もともと才能は大いにあったため、1986年に初場所後には大関昇進。同年名古屋場所後には22歳という若さで横綱へと昇進したのだ。これを機に北尾光司から名を双羽黒光司へと改名した。
期待された北尾光司さんであったが、8場所後までに大きな成績も残すことはなく、「有名なちゃんこ事件」を起こし廃業に至ってしまう。
このエピソードにも諸説あり、対立した北尾光司さん側と立浪師匠側での言い分が異なる部分が多いのも事実のようだが、事件の発端は「あんなちゃんこが食えるか」と横綱(双羽黒)が立浪師匠に言ったことで、言い合いになりそこに仲裁に入った女将を振り切る形で部屋を出て行ってしまったという。
立浪師匠からすると北尾光司さんが女将を振り切ったことが「女将に暴力を振るった」という形で捉えられてしまい、マスコミへと広がってしまった。しかし、後に北尾光司さんはこれは完全に否定。実際に女将からの被害届も提出されていないため、真偽のほどは不確かのままである。
いずれにしても、そのまま部屋から逃げる形で廃業となってしまった。
「ちゃんこ事件」で北尾光司さんの相撲人生の幕閉じとなってしまったが、この事件のみが原因だとは思えない。
どのスポーツもそうであると思うが、一番根幹にあるのは「精神論」であろう。どんなに強い力士であっても、その精神が強靭でなければ勝つことなど出来るはずがない。
北尾光司さんも同様で、もし立浪師匠が本当に彼を強くしたいと心から思うのであれば、面と向かってぶつからなかったことが一番の原因であろう。
師匠と弟子の信頼関係が築かれていなければ、何か困難があったとしても解決には至るはずもない。
北尾光司の嫁(淑惠)と娘の雪城ハルネが見た夫の晩年とは!?糖尿病で透析治療をしていた!!
横綱廃業後の北尾光司さんはプロレスラーやスポーツ冒険家などにも転身したが、相撲ほどの大きな結果は残せずにいた。2003年には立浪部屋のアドバイザーとして相撲界へ復帰する形となった。しかし立浪部屋に出入りしていたのもほんのわずかな時間であった。
北尾光司さんには妻と娘さんがいる。妻は精神科医であり、出会いは北尾光司さんの相撲時代。テレビで小結に昇進した北尾さんを見た当時の淑惠さんが一目惚れ。バレンタインチョコレートを渡したことから交際が始まった。
横綱廃業騒動後、北尾さんに対して世間から厳しい声があがる中、医師として働いていた淑惠さんが「今こそ支えるべきだ」と決断し結婚した。
2003年のわずかな立浪部屋の活動から亡くなるまでの約15年はほとんど情報が出て来ない。ようやく立浪部屋と和解出来た矢先に北尾さんの身体を病魔が蝕んでいた。北尾光司さんは重度の糖尿病であったのだ。
妻の淑惠さんは当時のことについて、
一人娘が中学生になる時には具合が悪くなり、高校に上がるころには北尾は寝たきりに近い状態となりました。足に床ずれ(褥瘡)が出来たことで、より歩けなくなってしまったのです。一時は足の傷の治癒が望めなかったため、医師から「これ以上傷が広がらないよう、足の切断を考えなくてはならない」と言われるほどでした。排泄も自分で出来なくなり私や娘が手伝っていました。
この5年ほどは千葉県内の病院にずっと入院しておりましたが、2018年の秋からは糖尿病腎不全になってしまったため、透析治療を開始していました。
ここ最近では目も見えなくなって、意識も朦朧としていて、私と娘がお見舞いに行っても「誰…?どこ…?」と言って、私たちのことでさえ分からなくなってしまっていました。
また、夫の北尾光司さんの葬儀のあと、メディアに対し
葬儀は生前からの本人の希望で娘と私だけの家族葬としました。何かと世間をお騒がせしましたが、主人は曲がったことが大嫌いな、とてもピュアな人でした。
と話している。
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